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ぶらり途中下車納める年フェアの旅でどうでしょう - 2日目

2日目、平泉・胆沢編。
まずは6時台に起床。顔を作って、朝ごはんをいただきます。

今回泊まった旅館にはねこちゃんがいました。この子もめちゃくちゃ人懐っこい!あまりの可愛さにしまじが朝から半分溶けてました。

準備ができたら、レンタカーを借りに行きます。
わたしはこの時知りませんでした、オタクと乗る車が楽しすぎる事実……。
ガンガンるひまの音楽流せます。耳馴染みのいい曲最高最高最高最高!!!!!!!!
なんてはしゃいでいたら、なんと再び「いきなり間違えた〜〜〜!!!!」設定する目的地をわたしが思い切り間違えてました。ごめんね。2日連続で九度山に向かう重長くん状態です。ベリー先輩わたしたちもお守りしてください。BGMに流れる僕が僕であるためにが沁みる。

気を取り直して平泉へ向かいます。道中つわものディストラクションかかるとやっぱり盛り上がる。俳優さんたちがこの曲盛り上がるよねって言ってくれるの嬉しいよねって話でも盛り上がる。
9時前になんとか平泉到着です。目的は中尊寺。朝早かったのでこの時駐車場はそれなりに空いてましたが、帰り10時11時ごろには満車になっていました。三連休おそるべし。ぜひこちらを読んでる方が中尊寺へ行かれる予定がございましたら、早朝が吉とお伝えしておきます。
中尊寺の前に、近くに弁慶くんのお墓があるとのことで行こう!と探しました。が、これがなかなか見つからない。付近をうろうろしていると、


芭蕉やん(沸)
御ピやん(沸)
推しが大渋滞の土地平泉。
にしても弁慶くんのお墓が見つからない、と思ってたら案の定真反対の方向行ってました。地図が見れない天才だと思う。


無事にショートコント。
それでは中尊寺、向かっちゃいますか?\いいですねえ〜/

めっちゃ坂ですやん。
途中本当に登りがきつくてヒイヒイいいました。神社仏閣が山に建てられがちなことを思い知る旅。元気なうちにまわれるところまわろうと心に誓う。

中尊寺へ至る道の左側、弁慶堂がございます。
お堂の中には義経くんを守る弁慶くん。


中尊寺に到着した頃、青空が見えてきました。多少雨というか霙というか、なにやらぱらついていたけれど気にしない。
お参りして、御朱印貰って、たしかおみくじも引きました。二人して小吉、、慎ましく生きよう、、。
金色堂に行く前に讃衡蔵に。もうめちゃくちゃ巨万の富でした。巨万のォ〜〜〜っ富!!!(チャーン)(忠勝さま)
どでかい仏様に、綺麗な仏様、お腕がたくさんな仏様、、、仏様がいっぱいでありがたすぎてお賽銭チャリンチャリンチャリン……
この中の年表が(たしか)田村麻呂奥州征伐から始まってて、胸がギュッてなりました。たしかに蝦夷が討伐されてからが政治的には奥州のスタートだよなって、、、、。苦しい、、、、。
年表では田村麻呂さまから始まり、奥州藤原氏義経公、頼朝さま、伊達家と追っていてるひまオタク的にはちゃめちゃ楽しかった!
中には金色堂のミニマム版みたいなの(語彙貧ピークでごめんなさい)もあって、金色堂を見る前の予習もできました(?)
そしていよいよ金色堂。もう本当に、本当に圧巻でした……。
めちゃくちゃ巨万の富だった……5千両出すわ……って言いながら見てました。
金色堂を解説してくれるナレーションが流れているのですが、秀衡と泰衡親子の遺骨が同じところに眠っているというお話で目の周りがベチャベチャに濡れました。


こちらは金色堂が中に入っていたという覆堂。
中央の柱の、るフェアな名前にただでさえ涙腺ゆるゆるだったのにもうズビズビズバズバの域です。しんどいな、切ないな……。


今さらっと調べてびっくりしたんですけど、夏草や〜、の歌の前に芭蕉蝦夷について触れているんですね…。

泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。

泰衡たちの屋敷跡は、衣が関を隔てたところにあり、南部地方からの出入り口を固めて蝦夷の侵入を防いだと見られる。

松尾芭蕉の旅 おくのほそ道 (29)

触れてるっていうか、ほんとにさらっとだけど
阿弖流為たちが戦ってからだいぶ経つように思うんだけど、蝦夷ってまだいたのかな、、、
奥州の地で生きて戦い、散っていった人たちを思うと本当に泣きたくなる……。

ちょっとしんみりしながらも中尊寺を後にします。
帰り道に食べた弁慶餅。

甘い系かと思ったら結構しょっぱい路線で美味しかった。


山を降りたら、先ほど迷っているうちに見つけた平泉文化史館に立ち寄ります。
三連休なのにガランとしてて、ゆっくり見ることができました。
人形で時代を辿る様式に、松島の伊達政宗歴史館を思いだします。政子に沸くわたしたち。
二階には当時の中尊寺の模型図などなどがありました。

文化史館を後にしてお土産を買ったら次の目的地へ向かいます。
巨万の富なお土産を買っていたしまじ氏。

お昼ご飯は阿弖流為の好きなおにぎりを。
キョウハジのみなさんの歌声とともに、奥州の地をうろうろします。沁みる。

ついたーー!!


母礼屋敷跡です!!
周りにいよいよなにもなくて、本当につけるか不安でしたが無事見つけれて良かった!!
最寄りのバス停の名前に「母生」とあって、母礼から土地の名前をもらっているそうでした。よく土地から苗字だったり名前だったりをもらう話は珍しくないですけど、土地についちゃうってすごいですよね。母礼はこの地の人にとってそれだけ大きな人だったんだなって思います。それと同時に、それだけ大切な存在だった阿弖流為と母礼が処刑された時のこの地の人のことを思うと痛ましくて……そりゃ土地に名前つくわ!?!?!?(怒)(?)

ちゃんと屋敷跡ってわかりやすく区画されてたのが印象的でした。
本当に人もなかなか通らないような土地でしたが、ちゃんと草刈りされてて保存されてるなって……小十郎の屋敷跡とか草生え放題だもんね……(小声)
そういえば母礼さんのお家に眼鏡を忘れてきてしまったので、今度母礼さんと遊ぶ予定のある方眼鏡見つけたらツイッター@info_zzz_link までよろしくお願いします。
なんで?って思うよね わかる わたしもなんで?って思ってる………まあ数年前に買った千円の激安伊達眼鏡なのでいいんですが………でも伊達………伊達の眼鏡………………エーンエンエン………………(伊達の眼鏡ではない)
妻帯者持ちの好きな男の車に口紅とか腕時計とかわざと忘れる愛人みたいなことを胆沢の地でまさかやるとは思いませんでした(漫画の見過ぎ)


さよならMore&Megane……

まあ伊達眼鏡なのでなくても生きていけますし、ちゃっちゃと切り替えて次に行きます。
次の目的地は羽黒山出羽神社。とその前に。

しまじが急に「アテルイって書いてあった!!!」と車を走らせたので立ち寄った謎の石碑。裏の説明みても???って感じでした。名前にあやかったなんらかの計画、、?
にしてもしまじ氏の納祭レーダー侮れない。3年間時が止まってる人間はひと味違いますね。

そうして到着出羽神社入口。見えますかね?めちゃくちゃ坂急なんですよここ……。
「えっこれ徒歩で登るのはしぬ」と死を悟るわたし。「フォロワーさんが馬力が云々って言ってたから車で登れるのかな……でも上に停めれるところなんてある……?」と不安げなしまじ。ここから歩くにしても駐車する場所がないし………と顔を曇らせるわたしたちの目の前を、ある一台の白い軽トラがブンブン!ブォン!と山道へ駆け上がっていきます。
「車で行けるんだーーーー!?!!?!?」
ありがとう軽トラ。軽トラがいなかったら今頃わたしたちのふくらはぎは限界に達していたかもしれない。
とりあえず車が通った痕跡を辿っていこうと登っていきます。それでもめちゃくちゃ普通に山の中でした。本当に運転お疲れ様……!トヨ●レンタリースの人もこんな山道いってるなんて想像してないだろって話してるとある看板が。
戦ってる😭😭😭😭😭😭はぁ〜〜〜〜〜本当にここで蝦夷が戦ってたんだ……ってしみじみしました。そういえば納祭で母礼が言ってた「あの山の向こうにはわたしたちの集落が云々!」ってどの山なんだろう……。



そしてとうとうつきました出羽神社
阿弖流為・母礼顕彰の地です。
以前しまじに、ここには阿弖流為と母礼が処刑された枚方の土が持ってこられてると聞いて「甲子園?」なんてアホなコメント残してしまいましたが……




慰霊碑が胆沢の地を高いところから見守ってくれているのを見るとたまらなくなってしまいました。1000年以上も長い間この土地を見守ってくれた先人たち。彼らが思い描いた平和な未来をわたしたちは歩めているのかな。
とりあえずわたしは海野が入れた水を望月が沸かして伊佐が蝦夷の無念が詰まった枚方の土を入れたお茶をアホコメント反省の証に飲もうと思います……

物見やぐら。

この旅行で撮れた中でもお気に入りの写真。
枚方で処刑され、お墓もあちらにあるけれど、阿弖流為と母礼が守った土地はここなんだなあって感慨深くなりました。紅葉と慰霊碑の黒のコントラストが綺麗。

まだまだ旅行は続きます。
2日目長くなりそうなので前半戦はここまで。
今回の記事書きながら、東北を思ってメソメソしてしまうぐらいいい経験をしてるなあって思います。